第1章 夜色の宿命 18話


 金烏は濡らした手巾で目元を拭うと、ほっと息を吐く。
 時間を置いたおかげで目の腫れもいくらかましになったようだ。

「わざわざ平気な風に装う必要ないと思うが」
「分かってる。やせ我慢するわけじゃない。でもあのままじゃ、昌に泣かされたって玉兎が勘違いするだろうから」

 混乱と安堵が過ぎ去った金烏の頬にもようやく血の気が戻ってくる。
 今まで無理していたつもりはなかった。あの屋敷では弟以外、味方と思える者など一人として居なかったのが金烏の当たり前だったから。

 けれど、昌がこうして来てくれて、大丈夫だと言い聞かせてくれて、もしかしたら「当たり前」じゃなくてもいいんじゃないかと思えるようになった。
 蔡家屋敷に駆けつけてくれたことと言い、本当に感謝してもし足りない。
 溜めこんでいたものを発散して心が落ち着くと、金烏の脳裏に一つ疑問が浮かんでくる。

「あの、聞きたいことを思い出したんだが」

 聞くべきか否か逡巡した結果、歯切れ悪く切りだす。

「蔡家でしていた、閻太子が私をどうこうとか言う話は……」

 手巾をごそごそ弄びながら尋ねる彼女に、昌はああ、と笑って返した。

「ああ、話の方便だ。ああいう手合いには上からの圧が有効だからな。名前を借りるのは了承済みだ」
「やっぱりそうか。いきなり閻太子妃に、はないとは思ったんだ」

 また自分の与り知らないところで話が進んでいるのではと、気を揉む必要もなさそうで安心する。興岐とは違い、閻太子とは何の接点もないのだし。

「いや、案外金烏のことを気に入るかもしれないぞ」
「それで私が閻太子妃? 大した出世だ」

 冗談めかした昌の言葉に、返す金烏も可笑しそうに笑う。こんなに楽に息ができるなんて、数刻前には考えられなかった。
 馬は一定の速度を保ったまま目的の地へと向かう。昌の技術が高いのか、揺られる感覚はあまりない。

「そうだ、俺もひとつ言い忘れていた。……伸ばしたんだな、髪」
「え、ああ。もうすぐ背を越すくらいになる」

 少々唐突に話題が変わり、金烏の返答に僅かに戸惑いが混じる。その話題がかつて嘆いていた内容だったから尚更だ。膨らむ期待に鼓動が躍る。
 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、藍色の瞳が柔らかく細められる。

「思った通りだ。よく似合っている」

 偽りのない称賛の言葉を受け取って、金烏は少女らしく微笑んだ。代えがたい歓喜を奥歯で噛みしめた。

「そう言ってもらえると努力したかいがある。実は、伸ばそうと思ったのは昌の言葉があったからなんだ」

 金烏は照れ隠しに口を開くが、言うつもりのなかったことまで口をついて出る。しまったと思っても、覆水盆に返らず、その言葉が昌の耳に届く方が金烏の後悔より先だった。

「え?」

 昌は自信に満ちていた先ほどとは打って変わって困惑と動揺らしきものをその声に滲ませている。
 ここまで来たら全部言うしかない。金烏の意識の切り替えは早かった。

「あの夜言ってくれただろう? ”長いほうが似合う”って」
「それがきっかけ、なのか?」
「ああ。家族(玉兎)以外で、そう言ってくれたのは昌だけだったから。忘れられなかった」

 たとえ彼にとっては他愛無い一言だったとしても何の打算もなかったから、金烏の心奥にずっと残り続けた。
 それくらい、昌から肯定されたことが嬉しかった。

「手入れはそこそこ大変だけど、今は自分でも気に入っているんだ」

 金色を一房摘みあげて金烏ははにかんだ。黄昏時から緩やかに夜へと向かう空の下、彼女の金糸は一筋の光となって煌めいた。

「……そうか。お役に立てたようで何よりだ」

 昌が緩めていた速度をにわかに上げる。その拍子に均衡を崩した金烏は思わず昌の懐に倒れこむ。昌の胸に柔らかな頬を寄せて金烏は目を伏せる。
 耳元で聞こえる鼓動が少しだけ早くなったように感じるのは、きっと気のせいなのだろう。

 **

「姉さん……!」
「玉兎、ありがとう。おかげで救われた」
「いいえ、いいえ! 姉さんが無事ならあんなこと何でもないです」

 玉兎は感極まった一言とともにぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。思えばあの頃はこんな風にすぐ近くにいたのだと、幼いころの記憶が呼び覚まされた。
 姉は宥めるように弟の背を叩いた。

「本当に、よくやってくれた」

 今生の別れにならずに済んだ安堵は何も玉兎だけのものではない。もう一度会えて嬉しいのは自分も同じだと伝えようと、同じように玉兎を包み込む。
 ともすれば延々とその場を動こうとしなかったであろう二人の意識を引き戻したのは、冷静な低い声。

「二人とも再会を喜ぶのはそのくらいにして、この家の主に会いに行くぞ」

 そう言えばまだ門の前だった。いつまでもくっついている訳にはいかない。金烏達はすっと身を離す。
 この家の主人が玉兎を匿ってくれたというなら、たしかに礼を言うべき相手だ。

「誰なんだ、ここの主というのは?」
「彼と俺とは長い付き合いでな。まあ、会えば分かる」
「そうですね」

 疑問の答えを知っているはずの昌も、玉兎ですらも言及をしない。既知の人物だと推測はできるが、具体的に誰かまでは金烏には判断が付かない。
 回答を得られぬまま主の部屋まで連れてこられる。

「おや、戻りましたか。首尾良くいったようでよかったですね」

 その声で思い出したのは、あの夜の香ばしい豆の匂いと白い甘い砂、そして深い森の緑。

「臙景?」
「はい、私ですよ。意外でしたか?」
「いや、だって、あなたには私を助ける義理はないでしょう?」

 確かに会えば分かる人物だったが、予想の範囲を軽やかに超えた彼の登場に戸惑いを隠せない。金烏は思わず本音を口にする。
 景はその直截的な物言いに不快感を示すこともなく、至って穏やかに話しかける。

「義理、はありませんが、こちらにも少し思うところがありましてね。首を突っ込むことにしました」
「今回の『設定』諸々、色々と知恵も貸してもらった、という訳だ」
「この人は演技派かつ演出も派手ですから、多少の粗も押し切れたでしょう」
「絵図を描いた張本人がよくも言う」

 長い付き合いというのもうなずける和やかさで語る景と昌とは対照的に、金烏はだんだんと表情を硬くなっていく。
 その変化に気づいた玉兎がそっと伺うと、金烏は伏し目がちに口を開いた。
 呟きにも似た、苦いものを絞りだす声。

「私は、あなたを殺そうとした」
「姉さん」

 事情を知らない玉兎は気遣わしげに見つめる。
 かつて命を狙った相手に救われる遣る方なさと悔恨の情が渦巻く様を眺める景は、ゆっくりと目を細めた。年若い彼女への労りを内包したそれは笑みによく似ている。

「でも殺さなかった。私にはそれで十分です」

 そう事もなげに言い切った後、景はからかうように笑う。

「だいたい、私は砂糖で殺せませんよ?」

 深い森の瞳が金烏を映す。温厚そのものの深緑色をのぞき込むと、懊悩が肩から抜けてゆく。

「ああでも、あなた、追い込まれると捨て鉢になる癖を何とかしたほうがいいですよ。あれはあまり良い手とは言えませんから」

 改めて謝罪と感謝を、と口を開きかけた矢先にのんびりとした指摘を受けて脱力する。
 しかし、景が言外に匂わせた詫びも礼も不要という意志を汲み取って、金烏はそれ以上言葉を重ねはしなかった。
 ただ種々の意味をこめて深々と一礼をする。対する景も無言でそれを受け取った。
 会話の区切りがついたところで、景は穏やかさを湛えたままの表情でポンと手を打ち合わせる。

「今日はいろいろ疲れているでしょうから、もうお休みなさい。明日行くところもありますしね」
「行くところ、ですか?」

 躊躇いがちに玉兎が首を傾げる。どうやら、ここからは彼も聞かされていない展開らしい。
 ただ一人この場で景の企みを知っているらしい昌は笑いをかみ殺している。

「そうです。いざゆかん、敵地へ!」
「はっ?」

 意気揚々となされた宣言に、そんな反応を返すので金烏は精一杯だった。

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