誓いを君へ

建久元年頃 重忠・結子

 衝立の向こうからする聞き慣れた声に結子は目を覚ました。目覚めた途端全身にのしかかる倦怠感に自然と眉が寄る。
 部屋に差し込む光の具合から昼頃だと察せられた。この頃は時間の経過も曖昧で、わざわざ確かめなければ正確な時刻が分からない。
 床で乱れた黒髪が首を巡らす動きに合わせて頬にかかる。鬱陶しく思うが払う気力はない。
 結子は外の会話に耳をすました。
 どうやらこの部屋に通す通さぬの押し問答をしているようだ。
「ですから、先ほどから申し上げている通り、四の君は今朝もお加減がよろしくないのです。お会いすることはできませぬ」
 かつて結子の乳母だった女房の声がする。四の君とは自分のことだ。北条時政の四番目の娘だから、この屋敷の者は結子をそう呼ぶ。
 女房の拒絶に対し、努めて冷静な声が耳に入る。
「そなたが主を案じる心情は察する。だが、そこを曲げて頼む。一目でいい、会わせてはもらえないだろうか」
 ここにはいないはずのかの人の声がする。身の内に響く安堵と愛しさで胸が詰まった。
「君草。私は大丈夫ですから、どうかお通しして」
 床からそう言葉を発する。精一杯声を張ったつもりだが、弱々しい響きにしかならず我ながら説得力は皆無だ。
 しかし、愛しい存在を間近に感じたせいか少しだけ身体に力が戻った気がする。多分、会話を交わす間くらいは保つだろう。
「君草」
 君草と呼ばれた女房はため息を一つこぼしただけで、かつての主人の命に異を唱えることはなかった。
「……決してご無理はなされませんよう、お願い致します」
 その言葉と共に聞こえた微かな衣ずれはおそらく君草が彼に道を開けた音。
 ひとつひとつ床がきしりと鳴るたびに、愛しい人を近くに感じる。
 その気配はまもなく結子の真横にたどり着いた。彼の人の香とともに秋と冬の匂いがする。臥せっているうちに移ろっていた季節を肌で感じた。
 すっと腰を下ろした彼の藍色の袖が視界の端に映る。そこから視線を上に持ち上げると、静かにこちらを見つめる夫と目が合った。
「じろうさま」
 潤んだ息で名前を呼ぶ。袖口から覗く拳がぴくりと動いた。
「お出迎えもせずに、申し訳ありません」
「そんなことはいい。無理はするな」
「大丈夫です。少し怠いだけで」
 結子は夫の手を借りてようやく身体を起こした。
 結子の背を支える腕は力強く、常の通りに頼もしかった。
「……少し、痩せたか」
 ぽつ、ともたらされた言葉で、久方ぶりに結子は己を客観視することになった。
 互いの目線が近くなり、髪を整えられず化粧も満足にしていないままの姿を見られる羞恥が、今更ながらに浮かび上がる。さりげなく手櫛で乱れた髪をなだめた。
 産み月に入る前に北条屋敷に戻ったのが二月ほど前。娘を産んだのが一月前。たかだか数ヶ月の里下がりだと言うのに、何年も離れていた心地すらする。
「身体の調子はどうだ。辛いところはないか」
「平気です。いえ、この有様では、説得力がありませんね」
 自力で起き上がることすら難儀している状態では、と苦笑気味に呟いた。
 夫はそれに対して何も答えない。かける言葉を探しているようで、周囲に薄暗い空気が落ちる。
 己の状況へ触れないように、結子は話題を変えることにした。
「あの子には、お会いになられましたか?」
 あの子とは結子の産んだ娘のことだ。結子自身もまだ数えるほどしか顔を合わせていない。
「ああ。……礼を言っていなかったな。結子、よくやってくれた」
「いえ、私などは何も。あの子自身の力です」
 産後の朦朧とした意識の中で耳にした力強い産声を思い浮かべる。
 同様に、我が子との対面を思い出したのか、夫の顔が綻んだ。
「確かに、健やかな子には違いない」
「ええ、元気すぎて乳母も手を焼くほどだと……」
 笑みとともに言葉を継ごうとしたが、肺に息を送り込んだその拍子に咳き込んだ。重忠は身体を丸めて咳を繰り返す結子の腕を取り、自身の身体にもたれ掛けさせる。
 確かな鼓動を刻む胸に身を預けたことで、少しだけ息が軽くなった。
「結子……」
 労わるように頬へ添えられた夫の手の温もりに泣きそうになる。
 心配を滲ませて顔を覗き込んでくる夫を軽く押しとどめて口を開いた。
「次郎さま、大丈夫です。少し疲れただけで」
「疲れたなら横になるか?」
 夫の気遣いに結子は頭を振った。力無く胸元へ縋り頬を寄せる。
「お願いです。もう少し、このままで」
 横になった方がが楽なのは分かっていたが、夫に触れられる名残惜しさがそれでも勝った。
 重忠はそれ以上床に戻ることを勧めずに、結子のなすに任せている。
 馴染んだ温度と慣れた匂い。それだけでこんなにも安らげることを久しく忘れていた。
「早く帰りたい」
 秘めるはずだった独り言が口から零れ出た。
 本来ならとうに菅谷の館に戻っているはずが、未だに体調が回復しないために、ここで留められている。
 一人目の福王丸を産んだ時はさほど苦労した覚えがなかった。だから、余計に困惑と不安が募る。
 そして、望みとは裏腹な日々による焦りと心細さのせいで、次第に嫌な予感が忍び寄ってきていた。
 もしかしたら自分はこのまま床を離れられないのでは、夫の元に戻ることは叶わないのでは、と。
 口にしてしまったら現実になってしまいそうで、怖くて言えなかった言葉。誰にも明かせなかった本音。知らず握った拳に力がこもった時。
「お前は」
 唐突に差し込まれた声が思考の沼に陥りかけた結子を引き上げる。弾かれたように俯いていた顔を上に向ける。
 見上げた夫は目元を柔らかく細めていた。その眼差しは秘められていた思いを雄弁に語る。
「お前は帰りたいと思っていてくれたのだな」
 結子の肩に回されていた腕がそっと黒髪を梳る。腕自慢の夫には珍しいほどの繊細さだった。
「離れがたく思っていたのは俺だけではなくて、安心した」
 結子にしか聞こえない声量でそう告げられる。思いがけない告白に、軽い衝撃を受けながらも黙って耳を傾ける。
「俺はどうやら、大切なものが己の守護の届かぬ場所に置かれることが苦手らしい。お前の里下がりが長引いて、もしやこのまま、と考えてしまった」
 それは結子の脳裏にも過ぎったことのある考えだった。
 夫がほんの少し垣間見せた弱さ。今までにはなかったことだけれど、結子の背と頭を支える両腕や胸元から伝わる熱は変わらず温かで、何の曇りもない。重忠はなおも続ける。
「だが、帰りたいと思っているならきっと帰ってくるだろう。お前はか弱く見えても意志を通す女だから」
 確かめられて良かった、と吐息のように零した。
「……次郎さま」
 夫が言葉が終えるのを待って、結子はその名を呼ぶ。
 腕の中から少し距離を取ると、そのまま自然な動きで唇を寄せた。彼の驚愕などお構いなしに恋しさと愛しさだけを込めて口付ける。
「次郎さま。お約束いたします。私は、決してあなたの預かり知らぬところで死んだりいたしません」
 夫が短く息を呑む音が聞こえた。
「私の帰る場所はいつでも次郎さまの居られるところですから」
 先のことなど何一つ確かなことはないけれど。
 今までもこれからも、何が起ころうとも必ずあなたの元へ。
 思わぬ不意打ちを食らい動きを止めた重忠だったが、立ち直りは早かった。
「ああ、そうだ。そうだったな」
 忘れるところだった。重忠は穏やかに結子を抱きとめる腕に力を込める。
 そうして今度は夫から寄せられる口付けを結子は静かに受け入れた。



終.

2018/11/11

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