君が崖から落ちるなら

?年頃 重忠・結子・鶴菊

  その一「重忠と結子の場合」

「次郎さま、私と少し問答をいたしませんか?」
 穏やかに時が流れる小春日和の庭を眺めながら、隣の妻がそんなことを言い出した。なにやら好奇心に満ち溢れた顔をしている。
 他愛ない遊びだ、期待には応えてやらねばなるまい。
「問答?」
 重忠が話に乗ってきたので、妻は半分身を乗り出して、こう切り出した。
「はい。私と菊姉様が崖から落ちかけていて、片方を引き上げるともう片方は落ちてしまうとしたら、次郎さまはどちらを助けますか?」
 ……成程、趣旨は理解した。
 興味と少々の緊張感を持って答えを待つ妻に対して、重忠は慎重かつ冷静に返した。
「......どちらも同時に引き上げれば助けられるのではないか?」
 己の膂力ならば、女性二人を片腕一本ずつで持ち上げることなど造作もない。軍馬一頭や十数人掛の庭石に比べればはるかに容易だ。
 そんなことを思い浮かべながら両腕を軽く上に引き上げる仕草をすれば、妻は虚をつかれたようで目を丸くしている。
「まあ! でも、そうですね、私ったら思い至らなくて。次郎さまならそうお答えになるに決まっているのに、迷っていただけるかと期待してしまいました」
 結子は頬を赤らめてすっかり恥じ入っている。
「けれど、菊姉様を踏台にして次郎さまの一番になるよりも、一番も二番もなくいられる方がずっと胸躍ることかもしれません」
 彼女らしい誠実な結論に至った妻に対して、自然と笑みが零れる。戯れの問答にも意味があるものだ。
「誰も失わなずに済む力を持てるのは僥倖なことだ。こうして、お前が俺の意を汲んでくれることも」
「はい」
 いつまでたっても少女の初々しさを失わない妻は、はにかみながら確かに頷いた。

**

  その二「重忠と鶴菊の場合」

「俺と結子が崖から落ちかけていたらどちらを助ける?」
 程よく回っていた酔いのせいで口を滑らせた自覚はあった。昼間結子とした問答をつい鶴菊にもぶつけてみたくなったのだ。
 ちょっとした好奇心からきた問いだったが、晩酌相手から返ってきたのはこの上なく冷めた視線だった。
「あんた、バカじゃない?」
 とどめにこの容赦のない一言。幼馴染でもある彼女は本当に遠慮がない。背筋がすっと冷えたのは何も冬のせいだけではないだろう。
「あの子から同じことを聞かれたのは知ってるけれどね、もう少し考えてから口になさいよ。私にどう答えて欲しい訳?」
「それは......」
 口達者な彼女にそう突き放されて言葉に詰まる。
 鶴菊は呆れを含んだ一瞥をやると、一つため息をついた。
「求める結末にしたいなら崖から落ちかけていようと自力で助かるくらいのことはしてみせてよね。そうしたら、心置きなくあの子を助けるから。私はあんたを選ぶんじゃなくてあんたの望みを選ぶ。これで満足?」
 そう一息に言い切られて、重忠には口を挟む隙がない。首をひねりながら唸る。
「まあ、そうなるのか......」
 確かにその決着が一番丸く収まる、と重忠は思った。事も無げな答えの中に彼女の密かなる信頼を見た気がする。
「ま、『あんたに救う価値がなくなる』ようなら気兼ねなくあの子を選べるかもね」
 鶴菊は悪戯っぽく笑いながらそう付け加えた。感心していた矢先にその追い討ちで、今度は重忠が呆れ返る。
 自ら水を差す真似をするな、と口にしかけたが、まあこれも素直ではない彼女なりの信頼の形だろうかと思い直すに留まった。

**

  その三「三人の場合」

「そうだ、言い出しっぺにも聞いておかなくてはね。あなたならどっちを助けるの?」
 夫一人に妻二人という、三人揃った朝餉の席で鶴菊がそう切り出す。
 川魚をつつこうとしていた結子は箸を止めた。
「あら、それは菊姉様です」
 昨日問いを投げかけると共に自分でも答えを用意していたのだろう。大して間を置かず結子は答えた。
「へえ、嬉しいことを。私はてっきり次郎を選ぶと思っていたのだけどね?」
 面白がるように言葉を重ねる鶴菊へ同じ様に愉快そうに結子は笑う。
「だって、次郎さまなら、私などが手を貸さずとも自力で生還なさいます。私はそう信じておりますもの」
 昨日も聞いた気がする評価をにこやかに寄せられて、多少の照れくささを覚えながら口の中の料理を飲み込んだ。
 無心に口を動かしていると、ふとある事を思いついてしまった。
「そもそも俺を引き上げるのは結子には無理なのではないか」
「それを言うなら、私一人でも苦労しそうな。選ばれた方が共倒れになるのではない?」
 独り言めいた評価に鶴菊が便乗して結子をからかう。
「まあひどい」
 結子は最初わざらしく非難したが、軽口を真に受けはじめたのか次第に本気で狼狽え始めた。
「どうしましょう。私が非力なせいで誰も救えないなんて。これからは少し腕力をつけた方がいいのでしょうか?」
 斜め上に飛んだ嘆きに鶴菊が慌てて口を開く。
「ほら、所詮例え話のお話だから、現実の腕力は無関係よ、ねえ」
 鶴菊にお前も何とか言えと目配りされて、重忠も言を重ねた。
「お前が信じる通り俺は自分で這い上がるし、鶴菊だとて己一人くらいは何とかするだろう。だから、そんなに気負うな」
 結子に届く言葉を選んで、一言を噛みしめるように口にする。
 左右から言い諭されて、結子の消沈していた頬に赤みが戻った。
「そうですね、他ならぬお二人が仰ることなら、その通りですね」
 落ち着きを取り戻した彼女らしい笑みで頷く。
 それからの会話はありふれたやりとりが主になった。和やかに進む時と弾む声に重忠は目を細めた。
 そうして 澄み渡る冬の朝に似つかわしい結末に人知れず息を吐く。



終.
2019/1/1




⍙(Top)

inserted by FC2 system