妻坂峠

文治三年頃 重忠・結子

 結子の夫が鎌倉の御所へと出仕するとき、ある峠まで見送りをするのがいつしか習慣になっていた。
 馬の背に揺られ、逞しい夫の胸に身を委ねながら、結子はゆっくりと流れていく風景を眺める。触れている温もりが嬉しくて、結子は口元に 笑みを滲ませる。と、その拍子に軽く咳き込んだ。それで、今まで忘れていた熱っぽさがよみがえってくる。結子は今朝方軽く熱を出していた。
「辛くはないか」
 結子の頭上から声が降ってくる。結子はその低く静かな声が身体中に深く染みわたるのを感じる。それほどまでに声の主に馴染んでいることが嬉しかった。
「いいえ」
 彼が必要以上に気遣うことのないように、すぐに結子は否定の言葉を口にした。
「大丈夫です」
「そうか」
 彼の返した言葉は短かった。
 二人で一頭の馬に乗っている以上、そのままではお互いの顔を見ることはできない。けれど、結子のことを案じていてくれることは声だけで分かる。その声はなおも言う。
「なにも今日のような日にまで見送りに来ずともよかろう」
 確かに今体調が良くないが結子にしてみればいつものことで、見送りに障るとは認識していなかった。それに対し、彼は結子をまるでこわれもののように扱う。たしかに自分は身体が丈夫であるとは言えないが、そんなに過保護にしなくてもいいのに。
 だから、かすかに感じる気だるさを隠して明るく言う。
「このお見送りは、願掛けですの」
「願掛け?」
 結子は小さく笑った。
「ええ、次郎さまが無事に帰ってきてくださいますように、って」
 鎌倉へと向かう貴方の姿を見届け続けるなら、きっと自分の元に帰ってきてくれる、と。
「次郎さまがいなくて不安に思っても、こうやって送り出しているうちは大丈夫だって思えるから。……けっきょくは、自分のためです」
 結子はうつむいて、自分勝手でごめんなさい、と小さく付け加えた。
「そうか」
 彼はそれっきり言葉を口にしなかった。結子はますますうつむく。
 彼のためと言いつつ、所詮は自分の不安を解消するための手段でしかなかったことに今更気づかされた。見上げれば彼がどんな顔をしているのか分かるのに、顔を上げることができない。
 無言のまま馬は歩を進めていく。そうして、いつもの場所に辿り着いた。彼女はここで夫と別れて従者に馬をひかれ屋敷へ戻る。
 先に馬を下りた彼が結子に手を差し出す。普段ならためらいなくその手を取るのだが、先ほどの気まずさからか、途中で手が止まる。
「結子」
 動かない彼女を促すように彼が言う。その声にようやく彼と結子の手が重なった。
 お互いの顔を見ることができるようになっても、結子はまた目を背ける。その耳に優しい言葉が届く。
「お前の気遣い、嬉しく思う」
 はじかれたように結子が顔を上げた。その視線の先には珍しく笑みを浮かべ彼女を見つめる夫の顔がある。
「次郎さま」
「お前のその願掛け、無駄にならぬよう気をつけることにしよう」
 そんな言葉を残してあっという間に彼の馬は去っていく。
 みるみるうちに小さくなっていくその背を見つめて、結子は今自分が満ち足りていくのが分かった。
 あの人は本当に、私の欲しい言葉を与えてくださる。
 この願いがいつまで聞き届けられるか分からないけれど、それでも彼は帰ってきてくれるのだろう。
 できうることならば永く永くこの日々が続くようにと、そう、祈っている。

 彼女の見送りは二人の永遠の別れまで、決して途絶えることはなかった。



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