雨の中の居場所

 また雨が強くなったようだった。さっきまでは小雨程度だったのに、今は耳障りな音が一段と大きくなってまわりの音を消してゆく。

 彼の唇がゆっくり動く。
 声は聴こえなかったけれど、彼が何を言いたいのか分かってしまった。

 ご、

 め、

 ん。

 たとえ予想していた答えでも、頭が真っ白になるものなんだ、とやけに冷静な声が頭の中で響いた。
 どうしてですか? と知らず知らずのうちに言葉がするりと出た。困ったように眉根を寄せていた彼は、それでも私の質問に答えてくれた。
 好きな人がいるから、と今度は届いてきた声は頭の中に入ってこなかった。
 だんだんと居たたまれなくなっていく。そのまま彼に背を向けて一目散に雨の中に駆け出た。
 背後で彼が何か言っていたけれど、今は早くここから逃げ出したかった。
 頬を伝う雫は雨なのか、涙なのかよく分からなかった。

 その日が初めての告白の日にして、初めての失恋の日だった。
 その日から雨の音は私の大嫌いな音になった。


「何ふてくされてんの? 桐子」
「別に」
「あー千花。聞くだけむだむだ。桐子ってば雨の日はいっつもこうなんだから」
 そう千花に説明する奈津を横目で見やると、視線を外にやった。
 今は五月の中旬。梅雨入りにはまだ早いが、これからますます雨が降ることが多くなっていくだろう。桐子にとっては何とも憂鬱な日々が続くことになる。
 窓の外から聞こえてくる雨音は、ごく控えめなものだったが、それでも桐子の気分を害するのには十分だった。
「それで……桐子?」
 突然奈津から話を振られて。桐子はいきなり現実に引き戻される。
「ああ、何?」
「もう。折角人が話してるのに、反応薄いなあ」
「ごめんってば。それで何の話してたんだっけ?」
「ほんとになにも聞いてないんだから。ね、明日、暇?」
「暇だけど……何かあったっけ?」
 すると奈津は両手を合わせて、桐子を拝む。
「桐子さま、ものは相談なんですが、明日あたしに付き合ってくれない? 明日隆平先輩の試合があるんだけど、一人じゃあんまり行きたくなくってさあ」
 隆平先輩とは奈津の彼氏のことだった。桐子たちより一つ上の二年生だ。彼について桐子が知っているのはその程度である。
「あのねえ。小学生じゃないんだから。それに私じゃなくて千花を誘ってもいいじゃない」
「千花は明日用事があるから駄目なんだって。ね、お願い。桐子にしか頼めないの」
 奈津は分かったと返事をするまで引き下がらないつもりらしい。そばで千花も苦笑していた。引き受けてあげて、と目が語っている。これで桐子は肯定しか出来なくなった。
「分かったわよ。行けばいいんでしょ、行けば。…そう言えばその隆平先輩は何部?」
「あ、知らなかったっけ。剣道部」
 結構強いんだよ、とまるで自分のことのように自慢げに胸を張る奈津。
 でも桐子には届かず、彼女は咄嗟に承諾したことを後悔していた。
 何故なら。
 あの「彼」もまた、この学校の剣道部の二年生だったからだ。

「面有り!!」
 小気味よい音が道場に響いたと思ったら、一瞬の静寂は歓声に取って代わられた。
 件の奈津の彼氏は、先鋒だった。先鋒は敵の出鼻を挫く大事なポジションだ。それを務めるとなると、奈津の言ったことはあながち嘘でもないらしい。
 そんなとりとめのないことしか考えられなかった。
 今の桐子には奈津の喜ぶ声も、まわりの興奮も遠かった。ただ一点を見つめている。大将として控えている彼を。
 目の前の試合に集中しているから、彼が人混みに目を向けることはなかったが、桐子は目を離せなかった。
 今になって思い出せば、彼を好きになったのは彼の試合を見てからだった。あの時、一年前の彼は本当に堂々と颯爽としていたから。好きになるのにそう時間はかからなかった。
 そうしているうちに、やがて彼の出番が来る。彼の登場でその場の雰囲気が変わった。

「ね、すごかったね! 桐子」
「…うん、そうだね」
 奈津は試合が終わってからもずっと興奮していて、桐子は苦笑するしかなかった。
「鳴海先輩、すごかったよねえ! 相手をあっという間に倒しちゃうんだもん」
 突然「彼」の名前を出されて、桐子の肩がぴくりと震える。が、奈津はそれに気付かなかった。だから桐子も普通に応じた。
「…本当にそうだったね」
「隆平先輩もかっこよかったなあ」
 奈津は一人でうんうんとうなずいていて、このままでいると、延々とのろけ話を聞かされることになりそうだった。
 だからそろそろ退散しようかと思った矢先、剣道部の面々がぞろぞろと出てきた。そして待ちかまえていた人ごみに囲まれている。
「あっ、隆平先輩だ。じゃあ、桐子またね! 今日はありがとう!」
 愛しの先輩の姿を見つけて、奈津は小走りに駆けていった。
 その輪の中には無論彼もいる。彼は楽しそうに笑っていた。
 と、彼の視線がある一点で止まる。彼の顔がさらに綻んだ。
 そしてそのまま軽快な足取りで輪から抜け出す。
 そこにいたのは一人の少女だった。歳は桐子と同じか、一つ上くらいだろう。
 長くて黒い髪をした少女は、大人びた雰囲気と、落ち着いた佇まいを纏い、彼に優しく微笑んでいた。
 綺麗な人、と桐子は思った。
 そして彼女は。
 彼の隣にいることが、誰より何より似合っていた。
 それだけで彼女が何者なのか解ってしまった。
 後ろで誰かが冷やかしている。でも、彼も彼女も幸せそうで。
 どうしたのだろう。
 彼女について特に何も感じなかった。あの人が、彼の言っていた人なんだ、と漠然と思っただけだ。
 不思議だった。
 悔しいだとか、憎らしいだとか、そういう感情を持つと思っていたのに。

 桐子の頬に雫が一粒落ちた。と思ったら、突然雨が降ってくる。それは穏やかに静かに桐子たちに降り注ぐ。
 桐子以外は、慌てて建物の軒に避難したり、傘を取り出したりしている。
 桐子は傘を持っていなかった。が、かといっていつ止むかも分からない雨に期待して、この場で雨宿りをするのは気が進まなかった。結局、雨足もそれ程激しくないと言う理由で、そのまま雨の中を歩き出した。

 桐子は降り注ぐ雨を肌で感じながら、急ぐこともなく歩いていた。その中で考えるのは先程の奇妙な感覚のこと。
 どうして自分はあの時穏やかでいられたのだろう。自分の性格はそれなりに分かっているつもりだったが、今回のことには納得がいかない。
 二人があまりに幸せそうだったから、拍子抜けしたのだろうか。
 そう考えていくうちに、自分がこんなに悩んでいるのがとても些細なことに思えてくる。
 思えば、桐子は彼のことを本当に好きだったのだろうか。もしかすると、憧れという言葉だけで片づけられてしまうことだったかもしれない。恋に恋していたこともあったのだろう。

 だからこそ今、桐子はこう思える。
 たとえ、彼女の代わりに私が居ても、きっと彼女ほど似合うことはないだろう、と。

 あの二人はとても自然だったから、ただ純粋に羨ましい。
 いつか、私にも訪れるだろうか。その人の隣が自分の居場所だと、そう思える日が。

 しとしとと降る音に耳を傾けながら、桐子はしばしの思案に耽る。

end.
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