邂逅―桜の下の巡り合い―
わたくしはいつまでもここでお待ちしています。
そう言って貴方を送り出したのは、いつのことだったでしょうか。
わたくしは鳥たちの高らかなさえずりに、ふと目を覚ましました。貴方が戦争に行ってから、何度目かの春が来ようとしています。
あの頃のことを、まるで昨日のことのように思い出すことが出来ます。
貴方と過ごした日々はわたくしにとって、まるで宝物のようでした。わたくしは今まで生きてきた中で、これ程幸せだと感じたことはございません。
身寄りもなくずっと独りで毎日をただ「生きて」いたわたくしを、初めて見てくださったのが貴方でした。貴方は本当に優しい人でしたわ。その笑顔がどれだけわたくしを救ってくださったことか、きっとお知りではないでしょうね。
貴方に出会えたことを何度神に感謝したことでしょう。あの頃のわたくしは、この日々がいつまでも続くものと、いつの間にか信じるようになっておりました。
それなのに。
貴方を戦場へと招く紙切れが、傍にいられる喜びをわたくしから奪っていきました。
そうして貴方はわたくしの手の届かない、遙か彼方の敵地へと旅立ってしまわれました。
貴方がわたくしから離れていってしまうあの日のこと。わたくしと貴方が出会ったこの丘で、わたくしに約束してくださいました。
必ず生きて戻ってくるから、と。信じて待っていてくれ、と。
そう告げたときも、貴方は微笑みを絶やしませんでしたね。いつもと変わらぬどこまでも温かい微笑でわたくしを励ましてくださいました。
涙がとどまることなく流れて、ぬぐってもぬぐっても視界が霞んでいきました。わたくしも笑って貴方を送りたかったのに、どうしても出来ませんでした。
頬を流れる雫をそっとぬぐって、貴方はまた笑いかけてくださいました。
その顔を見ていると、必ず帰ってきてくださると信じることが出来ました。
その時わたくしは決めたのです。貴方を待ち続けることを。
それから何年経ったのかは知りませんが、わたくしは今も貴方と共に過ごしたこの家で貴方の帰りを待っています。
どれほど月日が経とうとも、苦にはなりませんでした。貴方はわたくしに帰ってくる、と言葉をくださいました。だから、わたくしはそれを抱いて待てると思いました。
でも。
人づてで戦争がとうの昔に、自国の勝利で終わったことを知りました。
戦争が終わったというのに、何故貴方は帰ってこないのでしょう?
嫌な予感が、胸をかすめる不安が、思ってはならないことをわたくしに囁いてきます。わたくしは必死に耳を塞ぎ、その場にうずくまりました。そうすれば、何も考えずに済んだからです。
貴方は帰ってくると仰いました。わたくしはそれだけを信じて待っていればいい。そう思いました。
すべての雑音を追い出して、貴方の声だけが聞こえればいいのに。
それからわたくしが一人なのをいいことに、言い寄ってくる男たちが現れ始めました。
もう待っても無駄なのだと、お前の夫は帰ってこないと。帰ってこない者を待っているよりも、一緒に暮らそうなどと、都合のいいことばかり。その浅ましさに思い出すだけで身震いがいたします。
わたくしはそんな男たちの言葉には耳を傾けはしませんでした。わたくしのような夫のある者に、言い寄る軽薄な男の言葉を聞き入れ、貴方のことを疑うなんて、罪深いことでしょう?
そうしているうちにも、治安がどんどん悪化していき、生まれ育った土地を離れる者も後を絶たなくなりました。
先日、とうとう仲の良かった隣の家も、別の土地に移ることになりました。彼らはわたくしのことも誘ってくれました。その温かい気遣いはとても嬉しく思いましたが、貴方が戻ってくるまでここを離れるわけにはいきません。
それを言って断ると、、彼らはわたくしの身を案じながら、この地を去っていきました。
それからまた何年も経ち、町並みもすっかり変わってしまいました。馴染みの顔もぽつりぽつりと消えてゆき、今では昔ここに住んでいた者は、わたくしを除いて誰もいなくなってしまいました。まるでわたくしたった一人が取り残されたようでした。
変わらないのはこの地を彩るモノたちだけです。
たとえわたくしが、貴方がいなくなっても花や鳥たちは変わらずに春を歌い続けるのでしょう。儚くとも伸びやかなその姿に、憧れに近いものさえ感じることがあります。そのように生きられたら、どんなにか素晴らしいことでしょう。
けれど。
わたくしにはそんな生き方は出来そうにありません。貴方のいない世界など、わたくしには何に価値も見いだせないのです。
わたくしは貴方がいなければとうに朽ち果てているはずの女なのでございます。
後何年待てば貴方は帰ってくるのでしょう? このままではわたくしは気が狂ってしまいます。いえ、いっそ狂ってしまった方が楽でしょうか。
わたくしに出来ることは貴方の言葉を信じること、貴方がわたくしの元に帰ってくるのを待つことだけだというのに。
貴方の言葉だけを信じていればいいと、そう決めたはずなのに、愚かなわたくしは迷ってばかり。どうして毅然とすることが出来ないのでしょう。そんな自分にほとほと呆れ果てる次第でございます。
嗚呼。胸が痛い。胸の奥の深い深いところで、血が流れ出しているような気がします。わたくしにこの痛みを与えたのは貴方なのだから、どうか、どうかわたくしを癒してくださいませ。
はらり。
ひらり。
今日もわたくしはあの丘へと向かいます。今、あそこに咲いている桜は満開を過ぎた頃。もうそろそろ桜吹雪が舞い散る姿が見られることでしょう。
今日は少し風が強いようです。役目を終えた花たちが、はらはらを散っています。その姿はいっそ潔いほどで、今のわたくしには眩しく感じられました。
桜は貴方が好きな花ですわね。その理由も分かる気がします。こんなにも綺麗で儚いのですもの。
ここにいると貴方に会えるような気がして、とうとうこの場所に来るのが日課になってしまいました。
ただ桜を眺めているだけなのですけれど、何故か安堵を得られるのです。
それはきっと貴方と桜が似ているからでしょう。限りなく優しく、限りなく切ない。だからわたくしは貴方に惹かれました。
いつの間にか長居をしてしまったようですわ。日も傾きかけていますし、今日はもう帰ることにいたしましょう。
急に風が強くなったようです。桜の花弁が本当の吹雪のようで、たちまち何も見えなくなってしまいました。わたくしは目を庇うのがやっとでした。
突然ふっ、と風が止みました。目にごみでも入ったのでしょうか、目が開けられません。
「――き、ら」
誰でしょうか? わたくしの名を呼ぶのは。この名を知っている人はもう居ないと思っていたのに。それにどうしてでしょう。その声は懐かしい感じがいたします。いいえ、懐かしいなどではございません。わたくしがずっとずっと聞きたいと狂おしいまでに焦がれていた声――。
「……あきら。晶」
間違えようはずもございません。あれは――――
「遅くなったね。今、帰ったよ」
翌日、桜の名所として有名な丘で二つの白骨が発見され、地元の話題をさらった。
昨日の大風で舞い散らされた桜に半ばまで埋もれ、まるで抱き合うようにして重なり合っていたそれは、何故か微笑んでいるように感じられた、と後に人々は語ったそうだ。
それと同時に、その場所からそう遠く離れていない荒れ果てた古い屋敷に幽霊がでるという噂も、その日を境にぱったりと聞かれなくなっていた。
end.