君想うが故の

 文治五(1189)年の奥州征伐から一ヶ月が経とうとしていた。奥州から帰ってきて以来、夫である重忠はふと考え込んでいることが多くなった。常でもあまり多くない口数がこの頃めっきり減ったように思う。

 屋敷の庭木を見据え黙したまま座す夫の背中を見るにつけ、かの地でなんぞあったのかと結子はひそかに気を揉んでいる。

 留守を預かっていた結子にはどのような戦であったか推し量る術はないが、やはり色々と思うところがあったのだろうと。

 しかし、初陣でもあるまいし日頃勇敢な夫が塞ぎこむほどの理由となると結子には見当が付かない。

 夫に従って参陣した家人に陣中の様子をそれとなく尋ねても、特段変わったことはなかったようでますます首を傾げるばかりだった。

 本人に直接聞くのが一番ではあるけれど、仔細を詳らかにすべきではない事柄ゆえの沈黙やも、と思うとみだりに口を挟むことも憚られた。

 妻たる己に何も言わぬとなれば、徒に聞くべきではない。夫の中で折り合いがつけば、いずれ事情は明らかになるだろう。そう結論付けた結子はいらぬ差し出口はせず待つことにした。

 

 そして、「その時」の訪れはさほど遠くはなかった。

 いくつかの日を経たある日の夜。日ごとに厳しい冬の訪れを感じている、そんな宵のことだった。

 燈台の灯りが仄明るく照らす室内には他に人はおらず、結子と重忠の二人のみ。

 夫は用意した肴とともにゆっくりと盃を干している。結子はその側に控えて時たま瓶子を傾け夫の盃に注いでいた。

 特別言葉を交わすことはなくても、日頃多忙な夫と過ごすこのゆるやかな時が結子は好きだった。

 夜の帳と同じく下りる沈黙ですら愛おしく、細面の内で満ち足りた喜びを忍びやかに噛みしめる。

 とは言え、いつも終始無言のまま寄り添っているわけではない。己の仕事について多くを語らぬ夫であるゆえ、代わりに結子が語り手を務める。不在がちな夫の為、この頃成長著しい我が子、福王丸ふくおうまる のことなどを話すのだが、この時ばかりは常とは異なる状況であった。

 先ほどから酒盃を持つ夫の手は止まり、一切身動きせず瞑目している。それが考え事をしている最中の癖だと承知している結子は手に持った瓶子を置き、様子をそっと伺う。

 夫は何か言葉を選んでいる様子で、口を開く切っ掛けを探っているのが容易に見て取れた。

 夫が心中を表しあぐねているとあらば、その吐露を手助けするのも妻たる者の務めだろう。

「次郎さま?」

 結子は控えめに声をかける。囁きに近い声音だったが、夫の耳にしかと届いたようだった。

 すっと瞼を押し上げると、顔を妻へと向けた。纏っていた雰囲気も和らいだものになる。

「どうした?」

 思案を妨げられたというのに優しく響く声色に思わず鼓動がはねたが、気を取り直して口を開いた。

「次郎さまは近頃お悩みの様子。差し出たこととは思いますが、何をそれほど憂えておられるのかお聞きしたく存じます」

 結子の言葉は思いがけぬものだったようで、夫は少しだけ目を見張った。結子はさらに続ける。

「昨今のご様子を見るにつけひそかに愚慮しておりました。勿論、立場上お話になれぬことであれば仰って頂かずとも構いません。次郎さまの憂悶に微細ながらお力になれればと思った次第です」

 背筋を正し夫の顔を正面から見据えて、結子は言い切った。そう口にした後で詰問めいた言い様になってはいないか心配になったが、言葉にした以上取り返しはつかない。

 冷静な顔の裏でそんな焦燥が駆け巡るが、夫の表情は平素と変わりなく、まだ手にしていた酒盃を衝重に置き改めて結子へと向き直った。

「心配をかけた。すまない」

 その言葉と同時に頭を下げられて、今度は結子が狼狽する番だった。心内を口にしやすいよう水を向けるつもりがこのように頭を下げさせるなど、よろしくない行為だ。

「いいえ、私こそ出しゃばった口を」

 思案のお邪魔をして申し訳ありません、と威勢も消え失せて声も幾分萎んでしまった。袖の内で小さくなる結子に対し夫はいたって穏やかに妻に話しかけた。

「俺の悩み事が何か、ということだったな」

「はい」

 穏当な空気につられて、結子の緊張もしだいに解ける。

 妻が居住まいを正すのを見届けた後、結子の夫は精悍な面に愁いを滲ませて言葉を継いだ。

「……実は、九郎殿のことを考えていた」

「九郎殿の……」

 意外な人物の名が夫の口から出てきたことで、結子は静かに瞠目した。

 九郎判官義経。

 鎌倉の御所様の弟君。平家征討の最大の功労者。御所に弓引いた謀反人。

 そして、先日かの奥州の地で亡くなったこと。

 彼の人を語る言葉がいくつも浮かんでは消えた。

 結子は彼に会ったことはないから実際にはどのような知る術はないが、かつて彼がまだただの「九郎御曹司」であったころに、夫の評を聞いたことがある。

 曰く「不世出の英傑」と。

 鎌倉と決定的な亀裂が生じ、京から行方をくらませた際にも、あの九郎殿が不運なことだとこぼしていたこともあった。

 いずれにせよ、夫がそう言うのであればそうなのだろうと結子は思っている。

 そう言えば、と頭の内で暦を手繰り寄せはたと気づく。今日が九郎義経の月命日であったことを。

「奥州での戦後処理の合間を縫って、九郎殿が最期を迎えられたという地を訪れた」

 すでに焼け落ちた残骸程度しか残ってはいなかったが、と夫は言い添える。

「ここが、九郎殿と……さと の、死地かと」

 郷。その名も聞き及んでいた。秩父平氏の畠山と祖を同じくする河越氏の娘。九郎義経の正室。彼女もまた夫と命運を共にし、幼い娘と衣川にて果てた。

 尊敬する英雄と一族の姫の最期の地を目にして去来しただろう種々の思い。それが夫の物思いの要因かとようやく得心に至った。

 しかし、納得したところで自分は一体どんな言葉を持ち合わせているというのだろうか。どう寄り添うことが夫の為になるのか、心情を暴くことが結子の自己満足ではないと言い切れるのか。

 告白を促すべきではなかったのかもしれないとさえ思えてきたその時。

「結子」

 己を静かに呼ぶ声にはっと現に引き戻される。顔を上げると結子を真正面から見つめる瞳と視線がかち合った。

「はい」

「俺が九郎殿と同じ立場になったら、お前はどうする?」

 謎掛けのような問い。何と言えばよいものか返答に窮する。

「九郎殿のお立場、というと?」

「九郎殿は衣川にて奥方と運命を共にされた。もし、まったく同じ立場であったなら私はお前を逃がすだろうか、それとも……」

 重忠が言い終える前に結子は口を開いた。

「私は次郎さまのお心に添いたいと思います」

「俺の?」

 妻の意図をはかりかねた夫の眉が訝しげに寄る。その疑問に対し結子はかすかに首肯し言葉を継ぐ。

「次郎さまが、死出の道連れをお望みならば、何処まででもお供いたします。けれど、例えば我が子の、福王のために生きよと仰せなら、なんとしてでも生き延びます。生き延びてみせます」

 いつ誰が、何が己の足元を掬うか知れぬ今生だ。己の周囲だけが例外になる訳がない。死ぬ覚悟も生きる覚悟もできている。その心積もりがなければ武士の妻など務まらない。

 ただ、どんな結末であろうと、できることなら夫の想いに沿う形でありたいと思っているだけだ。

 それが結子の偽らざる本心だった。

 この女人には珍しくきっぱりと言い切った後、首を傾げて夫に尋ねる。

「己のない女とお思いになりますか?」

 挑むようにすら感じられる妻に目を細め、夫は首を横にゆるく振った。

「いいや」

 短い否定の言葉に、結子は肩の強張りを解くと小さく息を吐いた。悄然とした面持ちで頭を垂れる。

「生意気を申しました。お許しください」

「いや、それには及ばない。結子、もう一つ聞きたいことができた」

「はい。何でしょう?」

 平静を取り戻した彼女も姿勢を正す。

「俺の望みに従うとお前は言ったが、お前自身はいかなる結末を望む?」

 問いに対して今まではきと喋っていた結子だったが、ここで初めて逡巡した。

「私の……。申してあげても次郎さまの枷にはなりませんか?」

 言い淀む結子に夫は力強く肯定する。

「ああ」

 結子がこの世で最も頼みとする人に後押しされ、静かに唇を動かす。

「私は、できることなら、最期までお傍にいさせていただきたく思うております」

 夫への思慕を貫いた河越の姫のように。

「置いていかれるのは、嫌です」

 ぽつり、とこぼされた、本当なら秘めておくつもりだった結子の心。

 覚悟はしている。生きろというなら生きてみせる。それは嘘ではない。けれど、その耐えがたい孤独を思うだけで足下が底なしの沼になったかのような恐怖が身を走る。

「結子」

 穏やかに名を呼ぶ声と節くれ立った掌が妻を労わるように頬に添えられる。

 知らず頬に伝っていた雫を、武骨とは裏腹な優しさで拭う。

「申し訳ありません、こんな。泣くつもりはなかったのですが」

「いい。もう何も言うな」

 繊細な陶磁器を扱うがごとくの慎重さでそっと抱き寄せる。結子は身を包む馴染みの匂いにひどく安堵した。そして、何一つ確かではない現世でこうしてここで生きていける、この世で一番安全な場所に居られる僥倖が身を満たしていく。

 結子は深く息を吸い込み衝動を鎮める。わずかな身じろぎで、切り揃えられた黒髪がかすかに揺れた。

 落ち着きを取り戻した後、ゆっくりと身を離す。名残惜しくはあるが、いつまでも夫の優しさに甘えてはいけない。

「見苦しいところをお見せしました……」

 深々と頭を下げた拍子に艶めく黒髪が肩口から滑り落ちる。床に額ずく結子の頭上から落ち着き払った声が降ってくる。

「いや、お前の想いはよく分かった。俺の方こそ気分の良くない話をしてしまった。すまない」

 先ほどの結子と同等の深さでもって詫びる夫に今度は結子が慌てて口を開く。

「いえ、そんな、次郎さまに謝っていただくことでは。元々私の方からお聞きしたことですし」

「いや、それを言うなら元々俺が気を遣わせた為に」

「ですから、そのお悩みを無理に聞きだしたのは私で」

 互いに自身の咎を主張し謝罪し合うが、状況を客観視できる他者は室内にはおらず、ましてや夫婦の口論など仲裁役を期待するわけにもいかず、このまま平行線を辿るかと思われた。

 しかし、二、三回同様の問答を繰り返した後、結論が出るはずもない事柄だと、どちらともなく口を噤むことで不毛な言い争いは終わりを告げた。

「とにかく、遺される者を哀れと思し召しならば、どうか、そのようなことにならぬようお心配りくださいませ」

 いささか唐突だが、これ以上の「もし」の仮定から離れられない議論を続けるくらいなら、これで幕引きにした方がいい。

「『いつか』のことなど、その時にならねば分からないものですし」

 共に泉下に向かうのか、それとも遺されるのか。叶うなら「いつか」のまま、であって欲しい。

「そうだな」

 夫にも否やの声はない。しかし、その後に続けた言葉には苦さが混じっていた。

「だが、俺には何も約束をすることができない。お前達を置いて決して死なぬとは言えない」

「はい」

 夫はいつになく饒舌だ。それは想いの強さが表れているがゆえのことだと、理解している結子は微笑みを湛え、短い相槌で先を促す。強い意志を宿す双眸はひたと結子に向けられていた。

「それでも、俺には信じてくれと言うほかない。斯様な危うい生き方を信じろと言われたところで、そう容易ではないだろうが」

「まあ。まさか」

 自嘲する夫に、結子は少々大仰に目を丸くした。物言い一つ取っても実直な夫は思い違いをしている。それが少し可笑しくて、けれど幸せだった。

 すっと両手で夫の手を包み込む。結子のそれより少し高い体温が心地良い。篤実な人柄がそのまま両手から伝わってくるようで、それを今独り占めしているという事実にうっとりする。

 そして、結子は目を奪われるような笑みで最愛の夫に囁いた。

「この温かさ、力強さが私にとって何より信ずるに値するものでございます」

 結子にはそれ以外の答えなどあるはずがない。

終.

あとがき(解説)

2017/06/22

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