第1章 夜色の宿命 2話


 子どもの力では少々重たい扉を開けると、金烏の眉がにわかに跳ね上がる。
 普段なら金烏と玉兎、それと教官たちと代わり映えのしない面子がせいぜいなはずなのだが、今日はもう一人、先客がいた。

 廉宣湘れんせんしょう。この屋敷の主であり、廷原衆の一人にして頂点に立つ存在だ。先々代から王に仕えているという、金烏が今最も警戒すべき男だ。
 二人に気づいた宣湘は軽く酒杯を掲げてみせる。

「おお、来たか」

 老人特有の皺の刻まれた顔が笑みを形作る。好々爺然としているが、その姿に油断はできない。
 金烏たちはすっと拱手をして頭を下げた。下げた拍子に金と銀の髪がさらりと揺れた。礼をしつつ袖の内から様子を伺うと、宣湘の表情は穏やかなままだが、その目は値踏みするかのように細められている。

「おいでになっているとは存じ上げず、大変失礼をいたしました」

 金烏が代表して目を伏せ非礼を詫びた。精一杯愛らしく聞こえるように努める。鈴の響くような声に、普段を知っている教官役の男が渋い顔を作っているのが見える。
 何とでも言うがいい。笑顔の裏で金烏は毒づく。きたる時まで、宣湘の前で反抗的な態度を貫くのは得策ではない。
 場に落ちる沈黙に、流石に露骨すぎたかとチラッと宣湘を見ると、金烏と目が合ったとたん元の好々爺の仮面を被りなおした。

「いや、儂も前触れもなくすまなんだな。久しぶりにそなたらの顔が見たくなっての」

 嘘か真か判断しかねる理由だが、どちらにせよ殊勝な態度でいるのが賢明だ。

「お忙しい中、我らを気にかけてくださり、感謝の言葉もございません」

 隣で玉兎も如才なく礼を述べる。それにも鷹揚にうなずいた宣湘が笑みを深める。

「さ、堅苦しい挨拶はもう終わりにして、楽しい食事の席にしようじゃないかね」

 そうして表面上はにこやかな食事が始まった。しかし、味などろくに楽しめない。
 見た目は上品に、腹の内では悪態をつきながら、粛々と箸を進める。
正面の玉兎も不自然さがわずかに残っているので、似たようなものだろう。折角好物の干し杏の砂糖漬けが出ているのに、笑顔がぎこちない。金烏もさきほど香草と鴨肉料理を前にして少し箸をつけただけで終えてしまった。

(それもこれもこいつのせいで)

 そっと恨みがましく視線をやるのは、宣湘だ。教師たちはもっぱら宣湘の話の聞き役になっている。屋敷の主である老人はほろ酔いの赤い顔で上機嫌になっていた。

「そう言えば、二日後に城を見に行くそうじゃな? 日天童子にってんどうじ

 日天童子とは宣湘につけられた金烏の呼び名だ。玉兎は月天童子がってんどうじという。
 話題を向けられた金烏は、口角を下げつつある表情筋を動かしてにこやかに返事をした。

「ええ、実際に見ることで得ることも多いでしょうし、楽しみにしております」

 すらすらと淀みなく口にしているのが、見た目は童女と言っても差し支えない金烏なので、外見と言動の乖離が激しい。
 もっとも、同世代の子どもと接触したことがない金烏たちには、自身の言動がいかに世間一般と隔たっているか知る由はない。
 いずれにせよ宣湘は金烏の回答に満足した様子だった。

「うむ。得難き経験になるじゃろう。さて、もう少し会話を楽しみたいところじゃが、頃合いのようじゃな」

 宣湘は席を立つと真っすぐ二人のほうへ向かってくる。金烏たちも同じく椅子から立ち上がり、再び拱手した。
 ようやくこの茶番じみた食事会も終わりかと、金烏はひそかに息を吐く。そのせいで一瞬目の前の老人から意識がそれていた。
 だから、金烏の頭のから、ぽんと音がしたとき反応が遅れる。頭を撫でられているのだと気が付いたのは一秒以上の時間を要した。
 こぼれそうなほど見開かれた瞳を見て、宣湘はまた満足そうにうなずいた。

「それでは、疲れを残さぬよう、早く休みなさい」

 カッカッカッと高らかな笑い声とともに宣湘は扉の向こうへと消えた。教師たちもそれに続く。食堂には呆気にとられた金烏と玉兎だけが残った。

「あの、姉さん?」

 卓の真向かいから回り込んで、恐る恐る姉の顔をのぞき込む玉兎に対し、金烏が無言で金色の頭をずい、と差し出した。意図が読めない玉兎が戸惑っていると、頭を下げたままの金烏が口を開いた。

「何も言わずに触って」

 そういうことかと玉兎は逆らわず金烏の髪に触れた。サラサラと癖のない黄金の絹のような感触が心地よい。
 乞われるがまま頭を撫でていたが、やがて下げていた頭が動いたので、玉兎は手を引っ込めた。

「気が済みました?」

 そう問えば無言で首肯された。こういうところが姉の可愛いところだと玉兎は思う。

「じゃ、もうお風呂に入って休みましょう」

 差し伸べられた手とその手を取る手。彼らの絆を示すようにしっかりと二つの手が繋がれた。

  **

「さっき姉さんの髪を触っていて思ったんですけど」

 入浴後のひと時、髪の毛の水滴をふき取っていた玉兎が唐突に言った。

「なんだよ、いきなり」

 急降下していた機嫌も元に戻った金烏は怪訝そうに口をとがらせる。こちらも髪を整えている最中だった。

「姉さん、もうちょっと髪に気を遣った方がいいんじゃないかと」
「は? 髪?」

 思わず聞き返してしまった。

「だって、きちんとしたらつやつやでもっと綺麗になると思うんですよ、僕」

 姉さんと来たらいつも適当にしかしないから、と小言を付け加えられた。
 玉兎の熱弁に、金烏は半信半疑に弟と同じくらいの短さのそれをつまみあげる。

「うーん、必要性を感じないんだけど……」
「だったら、その必要性ができたらやりますか?」

 常なら金烏が望まないと悟ったらすぐに引き下がる弟がやけに食い下がる。どうやら相当もったいないと感じているらしい。いつにない熱心さが珍しくて小さく笑った。

「いいよ、やる。やりたいと思ったらね」

 根負けの返事に約束ですよ? と念押しする玉兎がやっぱりおかしくて口の端が笑みの形になる。
 そして、そんな日が来るとしたら、それはどんな日々になるのだろうか。
 輝ける光の中で長い髪をなびかせた幸せそうな己を思い浮かべると、見えない未来を少しだけ信じられる気がした。
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