――ねえ、知ってる? 夜の二時にね、今はもう使われていない駅に行くとね……
――どうなるの?
――来るはずのない電車が来て、それに乗っちゃうと異世界に連れてかれちゃうんだって!

 その土曜日はいつもより寒くて、朝起きるのが億劫だったのを覚えている。
 それでも総真にとっては何の変哲もない日常になるはずだった。
 部活から帰った総真は玄関に家族のものではない女物の靴を見つけた。今日母は妹たちと出かけているはずだから、誰のものかはすぐに察しがついた。父方の親戚で、典型的な「親戚のおばさん」という良く言えば世話好き、悪く言えばおせっかいな人だ。父や母との会話から総真はそういう印象を受けた。
 総真は彼女が苦手だった。彼女に直接何かされただとか言われただとかそういう経験があるわけではないが、どうにも彼女から好かれていないのではないかと思うことがたまにある。一歩引かれているというか、昔から総真の二人の妹とは接する態度に微妙な差を感じるのだ。うまく言葉にはできないが、見えない壁に阻まれているような。
(まあ、そこから関係改善をする気のない俺が言える義理でもないか……)
 話声は居間から聞こえている。二階にある自分の部屋に行くためには、その居間の前を通る必要がある。中学二年生にもなって親戚に挨拶もしないのはどうかとも思うが、できれば顔を合わせる前に部屋に逃げ込みたいところだ。お互いのためにも。
 総真は慎重に歩き始めた。居間の様子を探る気はなかったが、いつになく神経が研ぎ澄まされている。
 だから、本来なら届かなかったその言葉も総真の耳に飛び込んでしまった。
「あれから十四年だなんて、月日が流れるのって早いわぁ。慶孝くんもよく他人の子を自分の子どもとして育てようなんて思ったわよねえ」
 彼女はいったい誰のことを話している? 十四年? 他人の子?
 父が窘めている声がしている、気がする。でも、そんなことに頓着せず、さらに言葉は続く。
「だってねぇ、いくら親友の子どもだからって言って、結婚も子育てもしたことのないあなたが『総真は自分が育てる』だなんて無茶もいいところだったと思うわよ」
 後頭部を思いきり殴られたような衝撃。いつのまにか足は止まっていた。
「瑞帆ちゃんも、いきなり旦那さんが亡くなって、生まれたばかりの総真くんを抱えて大変だったのは分かるんだけどね。美冬ちゃんと圭織ちゃんが生まれてやっと血の繋がった家族を持てたんだから――」
 そこまで聞いてはっと弾かれたようにその場を離れる。気が動転してちゃんと足音を殺して歩けたかわからない。自室のベッドに音もなく倒れこむ。頭の中を巡っているのは、先ほどの言葉だ。
(他人の子。血の繋がらない子ども。俺は父さんの本当の子どもじゃない……)
 先ほどの話からすると、総真は母の連れ子ということか。何が何だかわからない。家族との思い出がグルグルと巡っては消えた。
「総真。帰ってたのか」
 いつのまにか父が部屋の前に立っていた。必死に平静を装い総真は身を起こした。
「おばさん来てるみたいだから」
 言葉少なく答えた。父は総真が彼女を苦手にしていることを知っている。
「そうか……」
 何か言いたげではあるが、口下手な父はそれきり黙ってしまう。その様子はいつもと変わらない。
 目の前で総真を気遣ってくれている人は、本当の父ではなかった。そう思うと先ほどの会話を聞いてしまったとぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。
 さっきの会話は本当なのか、血の繋がらない自分のことをどう思っているのか、と。
 けれど、自分がそれをしない、否できないことはわかりきっていた。真実を明らかにするのは今の総真にとって何より怖いことだった。
 総真の沈黙をどう捉えたのかはわからないが、父はそれ以上追及してこなかった。
「もうすぐ母さんたちも帰ってくるから、そうしたら夕飯にしよう」
「わかった」
 総真の返事をきっかけに扉が閉められ、親子の会話はそれきりになった。

 家族の食卓では、ろくに味もわからなかった。総真は緩慢な動きで料理を口に運ぶ。
 母と妹たちが今日の出来事を楽しそうに話しているのを、どこか遠くに聞いている。
「ね、お兄ちゃん。聞いてる?」
「え、あ、うん」
「お兄ちゃんったらうわのそらー」
 唐突に妹の美冬から話しかけられて、曖昧に返事をした。当然お気に召す返事ではなかったので、美冬の頬は可愛らしく膨れた。もう一人の妹である圭織にも容赦なくダメ出しをされた。総真は無邪気な妹の抗議を適当に躱しながら、味気のない食事を続ける。
「総真。今日はどうかしたの? どこか調子でも悪いの?」
 母の瑞帆が口を開く。母の目から見ても、普段とは違って見えるようだ。母らしい気遣いに、不自然にならないように気を付けながら笑みを作る。
「別に、なんでもないよ。ちょっと部活で疲れただけ」
 明らかに常とは違う総真の様子に、父と母は気づかわしげであるが、総真にそれ以上何も言ってはこない。
 楽しいはずの食卓は結局無味なままで、自分はこの団欒に相応しくない異物だったのだと思い知らされる。
 総真の世界はたった一言で作り変えられてしまった。
 夕食後、ベッドに寝ころんだまま天井を見つめる。父と母には心配をかけているのはわかっている。わかっているが、今は何もする気が起きない。
 真実を問いただす勇気もなく、聞かなかったことにすることもできず。そんな中途半端でいる自分が情けなくて嫌気がするが、どうしたいのか総真にもわからないのだ。
 父と母はどういうつもりで、この事実を総真に黙っていたのだろう。美冬たちは? 何か知っている? いや、妹たちははまだ八歳と七歳だ。総真と同じように何も知らされていないだろう。
 父との思い出が次々と湧いて出てくる。忙しい中運動会に駆けつけてくれて、親子競争で一位になったこと。遊園地で迷子になった総真を必死に探してくれたこと。父はどんな思いでいたのだろうか。あれこれ考えてみても、答えが得られるわけではない。
 そんな思考の迷路に陥りかけた脳裏に、ふとひとつの噂が浮かんだ。
 後から振り返っても、どうしてそんなことを思い出したのかわからない。
 今はもう使われていないとある廃駅。深夜の二時に、来るはずのない電車に乗ってしまったら、異世界に連れていかれるという。
 総真の中学校で流行っている都市伝説のことだ。
 聞いた時にはありきたりな話だという感想しかでなかったが、今は違った。
(行ってみようか)
 どうせただの噂だろう。実際に何かが起こることを期待しているわけではない。総真はただこの悶々とした状況を打破したいだけで、別に異世界とやらに興味はない。
 異世界だろうとなんだろうと、答えの出ない苦痛から逃れられるならどこだっていい。

 総真はそれから家族が寝静まるまで、じっと待った。深夜の二時に外出なんていくらなんでも見つかったら咎められるに決まっている。
 深夜一時半。そっと自室の扉を開ける。昼間以上に足音を殺して階段を下り、玄関までたどり着く。そっと気配をうかがうが、誰かが起き出す様子はない。
 総真はそのまま靴を履き玄関の扉に手をかけた。
 今は春に向かっているとはいえ、深夜ともなれば薄着で外出するわけにはいかない。しかし、芯から冷える寒さではないことに安堵した。
 時間帯のせいか誰ともすれ違わない。住宅街を抜け、コンビニの前を通り過ぎ、頬にかかる冷たさを感じながら総真は歩く。目指す廃駅は家から歩いて十五分くらいのところにある。二時までには着くだろう。
 廃駅に向かう途中、自動販売機で缶コーヒーを買った。それをカイロ代わりにして、総真は進み続ける。
 黙々と足を動かし、そしてついに目的の駅にたどり着いた。張り巡らされている金網を乗り越えて、総真は駅のホームに降り立つ。廃駅だから当たり前だが、総真以外の人影はない。ホームに設置されていた椅子に座って、赤錆の浮く線路を見つめる。二時にはまだ少し時間がある。
 誰にも何も言わずに外出するのは初めてだ。しかもこんな深夜に。
(バレたらすごく怒られるだろうな)
 でも、総真には必要なことだとそう感じたから、こうしてここにいる。
 椅子に体重を預け身動きせずにいると、頬に触れる感触に総真は気が付いた。
「……雪だ」
 天気予報では降雪の予報はなかったはずだが、どうやら気象予報士の的中率はまた下がったらしい。
 積もるような振り方ではないが、寒さはだんだんと強まってくる。どうやら長居はできそうにない。家を出るときは自暴自棄だった気持ちもだいぶ落ち着いてきた。
 こんなことをしても総真の望む答えが得られるわけではない。二時になるのを待って、少ししたら家に戻ろう。
 そう決めたとたん、目の端に何かがキラッと光った。何の光だろうか。
 人工物の光だと気づいた時には、もう目の前に来ていた。チラチラと降る雪の隙間から列車のライトが総真を照らしている。総真の口から思わず驚愕の言葉がもれた。
「ほんとに、来た……」
 車両は塗装が所々剥げ、デザインが古めな点を除けば外観は何の変哲もないように見える。こんな時間に廃駅までやって来る列車を普通と呼べるのならば。
 列車は徐々に減速し、そうすることが当たり前のように停車してドアが開いた。
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